Thursday, April 29, 2010

連濁の阻止

  • 複合語形成において後部要素の先頭無声阻害音 (initial voiceless obstruent) が有声化するいわゆる「連濁」という「音素交替」の過程は、現代日本語には現象として存在するが、全体的法則としては存在しない。しかしある「環境」(つまりある種の「連濁母体連鎖」)において逆に後部要素の先頭阻害音を無声にとどめる(つまり有声化を阻止する)いわゆる「ライマンの法則」は全体的と言えるぐらいに強力な法則として存在してはいる。それは明示すると次のような法則だといえる。
 [+阻害] [有声]  $ ___(m…)[+阻害, +有声]
  • これは「形態素境界 $ 直後 の阻害音は、 形態素内に別に有声阻害音(つまり濁音)がある場合、 無声でなければならない」という意味(境界 $ は形態素間の境界、括弧で囲った m… は境界と濁音との間にモーラが (すなわち母音などが) 一個またはそれ以上介在してもしなくてもよいこと)、つまり「後部要素がすでに濁音を含んでいる複合語では連濁は起こらない」という意味である。
  • もちろん「ライマンの法則」だけが連濁を阻止しているわけではない。特定の複合語(たとえば『片仮名』<カタカナ>など)でその後部要素の先頭子音が独自に始めから 連濁を拒否することも多く見られる。これに「ライマンの法則」が加わって現代日本語の(個人差・地域差を含む)複雑な連濁阻止(つまり連濁の例外)の現状が作られているのである。
  • 強調せねばならないのは、「連濁」も「ライマンの法則」も複合語形成だけに働くので必ず形態素境界が関わること、つまり形態素境界が関わるとは限らない形態素内における(音素の)「異音選択」と異なる、ということである。そのような「異音選択」だがその法則(制約)の一つに昔は次のような(全体的な)「相補分布」の制約が存在していたと思われる。
[+阻害] [+有声] [+母音]___

その他は [+阻害] [-有声]

  • この「相補分布」の制約が存在したから昔は濁音を完全に予測することができ、それで昔は仮名に濁点を付ける必要がなかった。しかし今ではこの制約は崩壊し、阻害音の [+有声][-有声] を制約によって予測することはできなくなってしまった。但し 制約の[+母音] ___という条件そのものは完全に消失してはおらず、今日の複合語形成において、「連濁」という「音素交替」の現象として(次のような形で)部分的ながらその痕跡をとどめている、というわけである。($ は形態素境界ゆえ直前に来る要素は和語の一部であれば必ず母音、したがって条件 $__ は実質的には条件 [+母音] __ と異ならないことに注意)。
[+阻害][+有声]$ ___

Wednesday, April 21, 2010

いわゆる「連濁」


  • 日本語の発音には、「連濁」(sequential voicing) と一般に呼ばれる、音韻法則らしき「音素交替」の現象がある。だがそんな全体的な「音素交替」の法則は実は現代日本語には存在しない。

  • 法則は説明のできない例外があっては法則にならない。たとえば中国語の声調に関する「第三声不連続」の法則や、英語の複数を表す形態素 /-s/ に関する「音素交替」の法則には不可解な例外はない。しかし「連濁」には「音素交替」の全体的法則と言うには恣意的としか言いようのない例外があまりにも多すぎる(たとえば『平仮名』はヒラナなのに『片仮名』はカタナ、『比叡山』はヒエインだが『高野山』はコーヤン)。

  • ではこの「連濁」と呼ばれる(「音素交替」の全体的法則とは言えない)現象は一体何なのか。「連濁」は、現代日本語に「音素交替」の全体的法則として存在するとは言えないが、「異音交替」(または「異音選択」と言うべきか)としては昔の日本語に全体的法則として存在していたようなのである。つまり今日の「連濁」と呼ばれる(法則のようでそうではない)「音素交替」の現象は実は昔の全体的「異音選択」法則の名残りに過ぎないと思われるのである。

Thursday, April 01, 2010

「異形態的」差異と「異音的」差異

  • 「富士山」の「サン」と「比叡山」の「ザン」のような差異を(「山」という「形態素」の)「異形態的」(allomorphic) 差異と言い、「新聞紙」に二度出てくる「ン」(/N/)が一つ目では [m゚] で、二つ目では [n゚] となるような差異を (/N/ という「音素」の)「異音的」(allophonic) 差異と言う。([m゚] [n゚]はそれぞれモーラ性があり、そうでない[m] [n]と対応する)
  • 「サン」/saN/ と「ザン」/zaN/ の差異は「産業」と「残業」などの区別に欠かせない。つまり /s/ と /z/ の差異は「産」と「残」という二つの異なる形態素の形成に貢献し、情報伝達上無視できない重要な差異である。だから /s/ と /z/ はそれぞれ独立した音素なのである。一方 [m゚] と [n゚] はそれぞれ「心配」と「寝台」に用いられるが、取り違えたとしても矢張り「心配」は「心配」、「寝台」は「寝台」と理解される。だから[m゚] と [n゚] はそれぞれ独立した音素ではなく、単なる異音同士で、その差異も情報伝達上さほど重要な差異ではない(とは言っても「日本語らしい日本語」の聴解・発話のためには矢張り無視できない)。
  • 「異音的差異」は単に異音の入れ替えによる「非音素的」差異だが、「異形態的差異」は全てが音素の入れ替え(付加・削除を含む)による「音素的」差異である。特に注意すべきことは、全く同一の聴覚差異が、言語の違い(または同じ言語での時代の違い)によって「非音素的」だったり「音素的」だったりすることである。たとえば [t'] (有気)と [t] (無気)の差異は漢語系諸言語では「音素的」だが日本語では「非音素的」(=「異音的」)である。また「カキクケコサシスセソ」と「ガギグゲゴザジズゼゾ」の差異なども、今でこそ「音素的」だが、古くは「非音素的」(=「異音的」)に過ぎなかったと考えられる。